神田明神と成田山新勝寺、両方お参りしても大丈夫?──江戸から続く「二つの信仰」の歴史をたどる
「神田明神と成田山新勝寺、どちらもご利益がありそうだけど、両方お参りしてもいいのかな?」
そんな素朴な疑問を持ったことはないでしょうか。
実はこの二つの寺社には、平将門の怨霊信仰と不動明王の祈祷という、歴史的に見ると興味深い関係があります。
本記事では、史料や伝承をもとに、江戸の人々がどのように信仰を受け止めていたのかを、文化・歴史の観点からわかりやすく紹介します。
※特定の宗教や寺社の優劣を論じる目的ではなく、歴史的背景を解説する内容です。
神田明神:平将門を祀る「江戸の守り神」
平将門と怨霊信仰のはじまり
平将門(たいらのまさかど)は、平安時代中期に関東で勢力を持った武将です。
朝廷との対立から戦いに敗れますが、その死後、「将門の霊が都を乱すのではないか」という不安が広まりました。
こうした恐れは次第に、「きちんとお祀りして敬意を払えば、かえって都を守ってくれる存在になる」という考え方へと変化していきます。
日本では、怖れられた存在を丁重に祀ることで、地域の守護神として尊ぶという信仰が少なくありません。
現在も東京・大手町には将門の首塚が残されており、歴史や伝承に関心を持つ人々がお参りに訪れています。
江戸の総鎮守としての神田明神
神田明神は、江戸幕府の時代に江戸総鎮守として厚く崇敬されました。
徳川家康が関ヶ原合戦の戦勝祈願を行ったことでも知られ、江戸城と城下町を守る神社として位置づけられます。
その背景には、平将門を丁重に祀ることで、都の災いを防ぎ、町の安全と繁栄を願うという信仰があります。
「祟り神であっても、きちんと向き合い、神として敬う」という姿勢は、日本的な宗教観の一つと言えるでしょう。
成田山新勝寺:不動明王への祈りから生まれた寺院
創建のきっかけは平将門の乱平定祈祷
千葉県成田市にある成田山新勝寺は、真言宗智山派の大本山として知られています。
その創建のきっかけは、平将門の乱(940年)にさかのぼります。
朝廷の命を受けた僧・寛朝僧正が、不動明王像を奉じて戦乱の平定を祈ったところ霊験があったと伝えられ、
その不動明王をご本尊として安置したのが、成田山新勝寺の始まりとされています。
このため、成田山は伝承上、「乱を鎮め、世の中を落ち着かせる祈りの場」として位置づけられてきました。
平将門個人を敵視するというより、戦乱そのものを鎮めることに重きが置かれた信仰だと見ることができます。
江戸で高まった成田山信仰
江戸時代になると、成田山の不動明王信仰は庶民の間で大きく広がります。
とくに歌舞伎役者の市川團十郎が成田山信仰を篤くし、「成田屋」の屋号を名乗ったことは有名です。
團十郎が舞台で不動明王を題材にした演目を演じたこともあり、
成田山は「厄除け」「開運」の寺として、江戸の町人から強い支持を集めました。
江戸における「二つの信仰」の受け止め方
こうして江戸では、
- 平将門を神としてお祀りし、町を守ると考えた神田明神
- 不動明王の祈りによって乱を鎮め、厄除けを願う成田山新勝寺
という、性格の異なる二つの信仰が並び立つことになりました。
「どちらか一方」ではなく「必要に応じて」信仰する江戸の人々
江戸の庶民は、どちらか一方だけを選ぶというより、
- 町の繁栄や仕事運の祈願には神田明神
- 厄除けや家庭円満、安全祈願には成田山
といった具合に、願いごとや生活の場面に応じて寺社を使い分けていたと考えられます。
一部では「どちらの霊験が強いか」が話題になることもありましたが、
それは対立というより、江戸の人々が宗教を身近なものとして楽しみながら付き合っていた一面とも言えるでしょう。
| 寺社 | 主な信仰対象 | 性格 | 主な祈願内容のイメージ |
|---|---|---|---|
| 神田明神 | 平将門公など | 都市守護・仕事運・商売繁昌 | 家内安全、商売繁盛、事業成就、勝負運 |
| 成田山新勝寺 | 不動明王 | 厄除け・交通安全・家内安全 | 厄除開運、交通安全、家族の安寧 |
現代:両方お参りしても大丈夫?
では、現代の私たちは神田明神と成田山新勝寺を両方お参りしても良いのでしょうか。
結論から言えば、一般的には両方お参りして問題ないとされています。
現代の日本では、神社とお寺を区別しすぎず、それぞれの場所で手を合わせ、感謝や願いを伝えること自体が尊重されるからです。
大切なのは、
- それぞれの寺社の由緒や歴史を知り、敬意をもって参拝すること
- 「どちらが勝つか」といった発想よりも、感謝や祈りの気持ちを大切にすること
- 各寺社の案内やルールに従い、周囲の人の迷惑にならないように参拝すること
です。
歴史上の背景を知ることで、むしろ一つひとつの参拝がより深い体験になるでしょう。
他にもある?「ライバル」のように語られてきた寺社たち
日本の宗教史には、立場や役割の違いから、しばしば「ライバル」のように語られてきた寺社や宗派があります。
ここでは代表的な例を、対立というより役割の違いという観点から簡単に紹介します。
- 延暦寺 vs 三井寺:同じ比叡山地域で活動しつつ、教義や立場の違いからたびたび対立・調整を重ねてきた寺院。
- 浅草寺 vs 寛永寺:庶民に開かれた古寺と、幕府の菩提寺として栄えた大寺という、性格の異なる二つの寺院。
- 西本願寺 vs 東本願寺:本願寺の歴史の中で、政治的な事情から分立した浄土真宗の二大本山。
- 曹洞宗 vs 臨済宗:どちらも禅宗だが、修行のスタイルや重視する教えが少しずつ異なる宗派。
- 伊勢神宮 vs 熊野三山:朝廷や貴族に重んじられた神社と、庶民や修験者に親しまれた霊場という、信仰の性格の違い。
- 明治神宮 vs 靖国神社:皇室ゆかりの鎮守の森と、近代以降の戦没者慰霊の場という、役割の異なる二つの神社。
いずれも「どちらが正しいか」を競うというより、それぞれの役割や歴史を理解することで、日本の宗教文化の多様さが見えてきます。
まとめ:二つの寺社が映し出す、日本らしい信仰の共存
平将門を丁重に祀る神田明神と、不動明王への祈りから生まれた成田山新勝寺。
その関係は、対立というより、
- 災いを鎮めたいという共通の願い
- それを異なる形で表現した二つの信仰のスタイル
として捉えることができます。
現代の私たちは、歴史の背景を知りつつ、
それぞれの寺社で静かに手を合わせることができます。
神も仏も、祈る人の心を支える存在であるという点では共通です。
次に神田明神や成田山を訪れるときは、
ぜひ今回の歴史物語を思い出しながら、自分なりの感謝や願いをそっと伝えてみてください。
同じ東京・関東の地に、これほど多彩な信仰が息づいていること自体が、日本の宗教文化の豊かさを物語っています。

