仏教の宗派の違い——“悟り”“祈り”“救い”をめぐる日本仏教の多様性

宗教雑学

日本にはお寺がたくさんありますが、
「このお寺は浄土宗」「あっちは禅宗」「うちは浄土真宗です」など、宗派もさまざまです。

同じ「仏教」と呼ばれながら、なぜこんなに違いがあるのでしょうか。
何が共通で、どこが違うのか。

この記事では、仏教の宗派を“悟り”“祈り”“救い”という視点からながめて、
日本仏教の多様性をやさしく整理してみます。


そもそも仏教とは何か——釈迦の目指したもの

仏教のはじまりは、インドの釈迦(ゴータマ・シッダールタ)にさかのぼります。
釈迦が目指したのは、「なぜ人は苦しまなければならないのか」という問いへの答えでした。

そこで彼がたどり着いたのが、

  • この世は思い通りにならない(諸行無常)
  • 執着が苦しみを生む
  • 執着を手放すことで心は静まる

というシンプルな真理です。

もともとの仏教は、
「神を信じれば救われる」宗教というより、“苦しみを和らげる生き方の知恵”でした。


日本で仏教が分かれていった理由

仏教がインドから中国、朝鮮半島を経て日本へ伝わるあいだに、
さまざまな解釈や実践が積み重なっていきます。

日本では、

  • 奈良時代の奈良仏教(華厳宗・法相宗など)
  • 平安時代の天台宗・真言宗
  • 鎌倉時代の浄土宗・浄土真宗・禅宗・日蓮宗

と、大きく3つの時代に分かれて発展していきました。

時代が進むにつれて、仏教は貴族や僧侶だけのものではなく、
庶民にとっても「生きる支え」へと変わっていきます。


主な宗派と「何を大事にしているか」

ここでは、日本でよく名前を聞く宗派を中心に、
それぞれが大切にしている「救いの形」をざっくりと見てみましょう。

宗派 キーワード 救いの形
浄土宗 阿弥陀仏を信じ、念仏を唱える 阿弥陀仏の力(他力)で極楽浄土に生まれ変わる
浄土真宗 「南無阿弥陀仏」をいただく信心 阿弥陀仏を信じた時点で、すでに救いが完成している
禅宗(臨済宗・曹洞宗) 座禅・公案・“只管打坐” 座禅を通して自分の心に仏性を見いだす
日蓮宗 「南無妙法蓮華経」を唱える 法華経の力を信じ、声に出して唱えることで現世を変えていく
真言宗(密教) 真言・印・曼荼羅・儀式 修法を通じて仏と一体になろうとする(即身成仏)
天台宗 「一念三千」/あらゆる教えを包み込む この一瞬の心の中に、世界まるごとの可能性を見る

それぞれ表現は違いますが、
どの宗派も「人がどうやって苦しみと向き合い、心の安らぎを見つけるか」
それぞれのやり方で説いているとも言えます。


浄土宗・浄土真宗——「他力」に身をゆだねる仏教

浄土宗・浄土真宗は、阿弥陀仏(あみださま)への信仰を中心とした宗派です。

ここで大切にされるのは、

  • 自分の力(自力)には限界がある
  • だからこそ仏のはたらき(他力)に身を任せる

という感覚です。

浄土宗では、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることが救いの道とされます。
一方、浄土真宗では、念仏は「唱える行為」よりも、
「阿弥陀仏を信じる心をいただいた結果として出てくる言葉」として重視されます。

努力して救いを“取りに行く”のではなく、
「もうすでに救われている」という安心に気づく——
それが浄土真宗のまなざし。


禅宗——「悟り」を目指す沈黙の仏教

禅宗(臨済宗・曹洞宗など)は、座禅を中心とした宗派です。

禅が重んじるのは、

  • 頭で理解するのではなく、体と心で「ただ座る」
  • 言葉を超えたところで、自分の心をじっと見つめる

という実践です。

臨済宗では、公案(こうあん)と呼ばれる難問を通じて気づきを促し、
曹洞宗では「只管打坐(しかんたざ)」=ただひたすら座ることを大切にします。

何かを“得る”ためではなく、
なにも足さない自分に戻るために座る——
これが禅の「悟り」のかたち。


日蓮宗——言葉の力で現実を切り開く仏教

日蓮宗は、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と唱えることを重視する宗派です。

ここでは、

  • 法華経こそが仏の真実の教えである
  • その教えを信じて唱えることで、苦しみのただ中から生き方が変わっていく

という考え方が基盤にあります。

祈りを声に出し、行動に変えていく——
「声と言葉の仏教」という側面も強い宗派です。


真言宗(密教)——儀式と祈りによる「即身成仏」

真言宗は、空海(弘法大師)が広めた密教の宗派です。

ここでのキーワードは「即身成仏」
これは、「この身このままで仏になれる」という大胆な教えです。

そのために用いられるのが、

  • 真言(マントラ):仏の言葉
  • 印(いん):手で結ぶ印相
  • 曼荼羅:宇宙を図像化した聖なる世界

といった象徴と儀式です。

言葉・身体・イメージをフルに使って、
自分の心を仏の境地に近づけていく、総合芸術のような仏教とも言えます。


天台宗——「すべてを包み込む仏教」

天台宗は、最澄が日本にもたらした宗派で、
「一念三千」という思想が有名です。

一念三千とは、

  • たった一つの心の中に、世界中のあらゆる可能性が含まれている

という考え方です。

天台宗は、経典や教えを「どれが正しいか」で切り捨てるのではなく、
さまざまな教えを「段階」や「立場の違い」として包み込む器の大きさがあります。


「悟り」と「救い」——宗派の違いは“心の向き”の違い

ここまで見てきたように、仏教の宗派によって、

  • 自分で悟りを目指す(禅・一部の密教)
  • 仏や教えに身を任せて救いをいただく(浄土系・日蓮系)
  • すべてを包み込んで理解しようとする(天台など)

といった「心の向け方」が違っています。

しかし、その根っこにある問いは共通です。
「どうしたら、この苦しみとともに生きていけるだろうか。」
「どうしたら、自分と世界を少しでも穏やかにできるだろうか。」

仏はひとつ、道はさまざま。
宗派の違いは、「人の生き方の多様さ」でもある。


結論:宗派の違いを知ることは、自分の「救い方」を知ること

仏教の宗派の違いを知ることは、
「どれが正しいか」を決めるためではありません。

むしろ、

  • どんなふうに生きたいのか
  • どんな言葉に、どんな祈りに、心が落ち着くのか

という、自分自身の「救いの形」を知るヒントになります。

座って静かに自分を見つめたい人もいれば、
声に出して祈りたい人もいる。
誰かにゆだねて安心したい人もいれば、自分で歩きたい人もいる。

仏教の宗派とは、そうした人間の多様さを受け止めるための、
いくつもの「心の道」なのかもしれません。


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